
15にして学に志す
30にして立つ
40にして惑わず
50にして天命を知る
60にして耳従う
70にして矩をこえず
論語の一節である。
50にして天命を知る。
置かれた立場や役割を全うすること。
母として、妻として、嫁として、娘として。
仕事で、社会で、世の中での立場。
これまで生きてきた経験がやっとここに来て生かされ始めているのを実感している。
30前後で結婚〜出産を経て、子育てスタート。
当時は「おままごと」のような家事育児も、
40になると「自分のもの」となり、それらしくなる。
バイブルのように手元から離せなかった料理本は、今では自分の“勘”に頼るようになり
若い頃を懐かしんでいたCDや写真も手に取ることもほとんどなくなり
育児と家事と仕事で、それどころではなくなってくる。
4人目を出産したのも40直前だ。
有り余るほどの、やることを前に、
40にして惑わなくなるのは「整理」する時期だからだ。
これは要らん、これは要る。
迷いがなくなるのは、一つ一つの物事に向き合うため
約10年、気づけば膨大な時間を費やしてきた。
現在52歳、まだまだ迷うことも多いが。
目の前の一瞬のことだけではなく、
長きにわたってやってきたことが
つまり、これまでの集大成が結果として現れ始める。
先日仕事で赤ちゃんを抱っこする機会があった。
久しぶりのずっしりと暖かい柔らかい匂いの感触に、懐かしさが蘇ってきた。
あの頃は「子育てつらい」
後追いする我が子に対して「トイレも行けないなんて」と窮した。
「いつになったら子育ては終わるのか」と思っていた。
肩にのしかかる抱っこ紐の重さを憎んだこともあった。
子供は可愛いが
子育てが楽しい、と思ったことは一度もない。
だから周りの子育てを楽しんでいるようなママを見ては落ち込んだ。
自分には子育てをする資格などないのでないか?と。
今思えばそう「見えた」だけ、と理解しているのだが。
けれど、この経験も今の私にとって必要なことだったのかもしれない。
他人さまの子を抱っこして、我に帰る。
これは自分の使命で役割と思う。
子育てが終わったら、親の介護がはじまり。
自分のことを振り返ることもままならない日常、ではある。
子育てだって、未だやり切った感は全くない。
いつまでもぐずぐずしている。
それでも、暮らしは続いていく。
同じ時間過ごしていても、泣いても笑っても同じじゃないか。
どうせなら笑ってしまおう。
吹っ切れた、50代である。
我が子に十分に託せなかった事を他のお子さんだって叶えることは可能だ。
これは「役割」「立場」を逆手に取れるからこそできる事。
変わったのは「外面」だけかと思ったらそうではなかった。
板についた笑いジワが、家に帰ってからも取れることはなかった。
行動から変えてみると、次第に心の中も変わっていく。
50代だからこそ、できることがある。
歳をとってメソメソしているヒマはない。
このあと、60代70代の生き方を楽しむ時間が待っているのだ。