老眼鏡に手が伸びる頻度が前より多くなった。
老眼が進行しているのを、ヒシヒシと感じている。
これまで裸眼で見ようとしていた文字が、見えない。
今日は老眼が進んだ51歳の女のつぶやき、である。
きっかけは
子どもが遠足や校外学習などで撮影した
クラスの集合写真を学校から貰って帰ってきた時の事。
集合写真を手に取り、
30人余りの中から、我が子を見つけようとしたが
全員の顔がモザイクがかかったような丸に見え、ボヤけて見つからなかった。
自分でも驚いた。
これが老眼が。ついに来たか。
老眼の“先輩”の、4つ年上の夫の老眼鏡をかけてみたら、
子どもの顔も一発でわかった。
眼鏡が無かった過去の自分と、
見えるはずと思い込んでいる自分とのギャップに戸惑った。
それまで、視力「だけ」は自信があった。
待ち合わせの駅の人混みで友人を見つけるのも。
本を“斜め読み”して、わかったふりをするのも。
掃除の汚れを素早く見つけて、ピカピカにするのも。
今では、
これまであった視力の自信がもろくも崩れてしまった。
これまで、視力が良く(両方とも1.5)眼鏡を持っていなかったので
眼鏡生活。には慣れていない。
眼鏡屋で視力をはかり。眼鏡を作ってもらった。
「老眼も進行しますので、定期的な作り替えが必要になります」
老眼鏡は何度も作り直さなければいけないとの話。
荷物に老眼鏡が一つ追加された。
仕事では支障が出るので老眼鏡は持ち歩いているが
プライベートでは実は持ち歩いていない。
子どもの無駄な“痩せ我慢”のように、抵抗したいのだ。
不便なのは
外出先で、何か書類など確認したりする時だ。
明るい場所なら多少は見えるので
それを持って移動したり。
商品パッケージに書いてある、大文字の情報だけで
判断したり。
最終手段は、店員に聞く。
「ごめんなさいね、老眼で全く見えなくて。教えてくれますか?」
年下の店員は、見ず知らずの目の前のおばさんに優しく教えてくれる。
世の中の優しさに触れながら
なんとかはなっているが
もういい加減、眼鏡持ち歩いた方が良いのか。
先日、中1の娘とマカロン作りをした。
レシピサイトを見る時に老眼鏡を使った。
いつも味は美味いが、
いかんせん綺麗に仕上がらない。
10回以上作って、この出来だ。
いかにお店のマカロンが、
生地がしっとりと、値が張る理由もわかり、繊細な美しい見た目なのか。
いつも身を持って尊敬をしている。
そんな神経と体力を使う、お菓子作り。
当然、目分量ではいかんし
眼鏡がある事で何より間違いなく見やすい。
老眼鏡に抗う、もう一つの理由として
外した際に少しクラっとする。
だか、つけた方が明らかに便利。
レシピを読む時は眼鏡。
作る時は眼鏡を頭に乗せ、手を動かす。
工程中、手に材料が付いたりして
手を洗ったり、スマホの画面を見たり、材料を混ぜたり、
キッチンで地味に大忙しである。
眼鏡をかけてキッチンに立つ。
ついでに見た光景。
引き出しや壁の角っこや洗いのこし、など家の汚れが
いつもの裸眼での
家事の動作では明らかに「足りない」ことが
はっきりとわかった。
これから眼鏡をかけた方が良さそう。と思う
一方で
自分や家族に甘く「大目にみる」事も
多少は必要なのではないかとも思う。
今や,無いものねだりになるが
これが、眼鏡がない動作だったら
どんなに楽だろうか。
ああ、目が見えるって事はありがたい。
この不便とどう生きようか。
往生際の悪い私、なのである。