
ずっと前に、
自宅近くの公園にホームレスが住んでいた。
毎朝の通勤時、その公園を通り最寄りの駅へ駆け足で過ぎる。
帰りは、というと
一刻も早く帰りたい私はその公園を横目に見ながら家路へ急ぐ。
その公園の横を一日2回は通っていることになる。
ちょうど今頃の気候だったと記憶してる。
夏が始まる前あたりだったか。
大きなスーツケースを持った一人の初老の男性が、その公園の前の道端でずっと立ちすくんでいた。
身なりは少しくたびれたようなファッションだった。
そして彼は、何かを誰かを待っているような、そんな様子でずっとそこにいた。
それが何日も続いた。
何かを待っているように見えたが、そうでもないらしい。
身動きはあまりなく、それにしてもおかしいなと思った。
その何日か後に、彼が公園のベンチに寝そべっている姿を見て、やっと理解した。
その姿は、ほっとしているようにも見えた。
棲家を探していたのか。
この場所でいいのかとここ何日か思案していたのだ。
と。
毎日最低でも2回は公園の前を通るので、流石に気にならないわけがない。
「今日のおじさん」の様子を見るのが日常になった。
夫もそれに気がつき、家でもおじさんの話をすることが増えた。
彼はベンチの上で、日がな一日を過ごしているようだった。
屋根がついたベンチは日よけにもなる、強い日差しから身を守っている。
幸運にも、ここには最近見かけるベンチの「意地悪な仕切り」も無い。
公園というのは、
確かに合理的、ではある。
特に生活で一番使うのは「水」だ。
ひねったら出てくる「水」がある。
洗濯、炊事、風呂。
身の回りのことは、この「水」があれば全てまかなえる。
これを書いていて
『ホームレス中学生』を思い出した。
麒麟の田村は逞しいなあ。と読んだ当時、感心した。
おじさんもまた、公園で生活を営んでいた。
暑い日には自分の着た衣類を洗い、
落ちていたであろう大きな木の枝を物干し竿代わりに使って、Tシャツと身体を拭いたのかタオルを干していた。
おじさんの上半身裸になった肩には刺青があった。
そのおじさんの存在に、一見無関心を装っているようにも見えるが
近所の住人たちは私と同じように、きっと気にはなっていたであろう。
平日の放課後には小学生の子供たちが、
休日には地域の少年野球の子供たちが、その公園のグランドでボールを投げたり蹴ったり。
ベンチにいるおじさんに気を遣うでもなく、かといって無視しているようでもなく。
何ヶ月か過ごしている、この地に馴染み始めているようにも感じた。
誰も声をかけようとしない。
私だってそうだ。
交番も近くにあるが声をかけているはずだろう、か。
ある日
一人のおばさんが、おじさんに食べ物を渡し話をしていた。
食事が気になっていたのだろう。
ベンチの下には段ボールに入った飲料水があり。
荷物は増えてきていた。
またある時は早朝の公園で
若い男女二人組がバスケットの練習をしている際、応援をしている様子で
シュートが決まった時は、遠くから拍手をしていた。
一人で生きているようで、その実は「つながり」を求めている。
ある日を境に、
スーツケース2つと荷物とおじさんの姿は忽然と姿を消した。
自立支援を促すシェルターに入ったかもしれないし
こことは違う住処を求めたのかもしれない。
いずれにせよ、
この地に何ヶ月かいたあのおじさんの「暮らしぶり」は
私たちに逞しく生きることを教えてくれた。