
電車のドアに挟まれた。
発車する直前の、閉まりかけた電車ドアと、ホームドアの2つのドアに挟まれた。
肩が痛いやら、恥ずかしいやら、乗り損ねた自分が惨めになり、
落ち込みながら居場所を探すようにホームをウロウロして、次の電車を待った。
次の電車まで
たった5分、である。
特に急いでいたわけではない。
欲が出た、または魔が差した。とでも言うか。
駅の階段を降りるとタイミングよく、
ホームに電車が到着している。
「駆け込み乗車は危険ですのでおやめください」アナウンスはあったはずだ。
ギリギリだが、目の前のドアに滑り込めば乗れたはずだ。
だが、そのドア付近の車両にはドア付近まで詰まった乗客がおり、
乗車することを躊躇してしまうほどの、混雑状況。
隣の車両を見ると、ドア付近に人がおらず、わずかに空いている。
「隣の空いている車両に乗りたい」
そちらに注意が行った。
一瞬の気の迷いがあった。
混んだ車両はそれだけでストレスだ。
だから、と言うわけではないが
ドアが閉まることの自覚がなかった。
「乗れるか?!どうだ?」と賭けの気持ちもなかった。
ふわっと飛び込んだその瞬間に
観音開きのドアが、両方から私の体を挟んだ。
『置かれた場所で咲きなさい』
渡辺和子 著
幻冬舎
この本の一節が、
当時読んだ10年前から現在でも頭に残っている。
手元に本はないので、うろ覚えだが、
シスターでもある、著者の渡辺和子氏は
・・・・・
毎日乗るエレベーターの階ボタンを押した後に『閉』のボタンを押している自分に気がついた。
自然に閉まるはずの『閉』ボタンを、
たった4秒という時間を、“待てない”のだと。
・・・・・
と言う内容だったと記憶している。
この本を読んでから、「ハッと」し、自分への戒め、として
これまでとこれからの、自分の行動を見直したのは言うまでもない。
なるべく穏やかに生きたい。
と日々願う。
で、この結果(ザマ)だ。
目の前の電車に乗るか、それとも次の電車を待つか。
こんな一瞬の判断さえも、狂う時がある。
徒歩で歩いていると
横断歩道の信号が赤で、左右から車も来ない。信号の先に人もいない。
「渡ってしまおうか?」
白状すると、
早足で信号無視して渡ってしまうことも、未だにある。
時間がないわけでもないのに。
たった1分が待てない、のだ。
ただ、“条件が揃って”いても、渡らない時も、ある。
お巡りさんが近くにいる時、だけでなく
子供と一緒の時は渡らない。
自分の子だけでなく、赤の他人の子でも、そう。
「ママ、信号赤なのに渡っている人がいるよ」
他人の信号無視を目撃した、手を繋いでいた小さな娘に言われたことがある。
恥ずかしいけれど「ママもそうなのだ」と声には出せず、胸が傷む。
いつから信号無視するようになったのだろう。
きっと大人になってからだ。
そう言う我が一番下の子も、中学生。
大人になりつつあり、
社会の汚れた部分を“学習”しているところ、だろう。
子どもに、ガッカリされたくない。
十分恥ずかしい大人であると自覚しているが、
「こんなことも出来(待て)ないのか?!」と自分を律することくらいしかできない。
急がば回れ。
今回の件をきっかけに、胸に刻む。