
ボケる事は恥ずかしいこと?
この前の日曜日、
中2娘と2人で夫の実家に少しの時間、滞在した。
夫の母は最近になり、老人性のボケが少し入り始めた。
すでに私の母がボケ始めていたので、気持ちの上で“免疫”はできている。
できないこともあるが、まだまだできることもある。
夫(爺ちゃん)と2人、自宅で暮らしているのが実状だ。
大きくなった子供達は、近所にある爺・婆ちゃん家に行くことは減り
皆が集まる年に数回くらいしか行かない。
末っ子の中2娘は、最後の孫ということもあり、
爺ちゃんが娘だけにお小遣いをくれる。
娘はそれをアテにしていることも大いにあるが、まだ嫁である私の立場に付き合ってくれる。
子供達、特に上の兄たちは爺・婆ちゃん家には滅多に行かなくなったけれど、
彼らが冷たくなっただけではない。
物理的に住む場所が離れ、部活に勉学にバイトにと、それらの優先順位が上がっただけだ。
じいちゃん子、ばあちゃん子、でなくてもいい。と割り切っている。
そもそも夫や私も最初から子供に「求めて」いない。
「ばあちゃん、最近ちょっとボケてきたみたいなんだよね」
子供達にはあった出来事をオープンに話す。
さして驚くことなく、淡々とうなずく子供達。
受け入れるしかない。といった様子にも感じる。
離れているからこそ、事実を話すのは私の役目なのかもしれない。
数年前に、
有吉佐和子の『恍惚の人』を読んだ内容を、ここにきて何度か思い出す。
40年以上、いやもう50年にも前に存在していた「自宅介護」
最後まで舅に対して優しい目線の主人公ではあるが
当時は老人のボケは「恥ずかしい」ものとして、嫁である主人公がワンオペ介護を担う。
文中に爺さんが堪えきれずに庭で小便をしてしまう一節に、身が引き締まる。
これが来るべきものか。と。
かたや嫁は、誰にも悩みを相談できない。
今でこそ信じられないことだが、当時はそれが当たり前だったのだ。
姑が「スマホの調子が悪い」から息子である(不在の)夫に相談したい。というので
「私でよければ見てみますよ」とスマホを覗き込む。
この「スマホの調子が悪いから息子に見て欲しい」案件は、もう何十回も姑から聞いて対応している。
夫もその度に疲弊しているはずだ。
電源が入っていなかったり、と誰でもできそうな初歩的なことが抜けてしまっている。
姑から受け取り見てみるも、
ええっと、こうでああで、、あれ?? 操作が危うい。
どっちもどっちだ。我ながら情けない。
ふと横に、手持ち無沙汰の娘の存在に気がつく。
「おお、ちょうどいい所にいた。ちょっとおばあちゃんのスマホ見てくれない?」
娘にバトンタッチする。
さすが令和の子。
娘はいとも簡単に、慣れないはずのスマホを操作している。
これまで少し離れた場所で黙っていた舅が「おばあちゃんに操作させてあげて」
そうね。
できることは自分でやらせないとね。
引き続き娘を見てみると
「そう、そこ。あ、惜しい!」「うんそうそう、その調子」
苛立つこともなく励ます調子でおぼつかない婆ちゃんに教えている。
まるで年下の子を指導するように。
‥‥‥娘よ、あなたそんなに優しかったっけ?
家の中ではパンツ一丁のだらしない父親にあんなに厳しく注意しているというのに。
できないことは、周囲の人を成長させる。
ボケて、何が悪いか。
たくさんの気づきがあった、豊かな母の日であった。