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2025.04.28物価高【生活の水準を下げる】提案

 

目に映る新緑が眩しい、時期。

 

 

あなたは

ゆっくりとこのお休みを楽しんでいるだろうか。

 

 

昨日は

娘の習い事の合間に

夫と束の間の公園デート。

 

「ふらっと近場で、何かパンでも買ってベンチでどう?」と夫からの提案。

 

いいね!と、ノリで公園近くのパン屋に入った。

意気揚々と

トレーとトングを手にして、パンの並んだ棚を見る。

・・・。

そして我々は目を合わせ無言で

手にした空のトレーとトングを元の位置に戻し、店を出た。

 

 

そして

近くのコンビニで、おにぎりと冷製パスタとスイーツと飲み物を買って、

公園に戻った。

木漏れ日の中、ベンチに座り、おにぎりとパスタとスイーツを分け食べた。

 

 

 

パンの値段をケチってコンビニに行き直した夫婦の話、だけで終わらせたくなく

今回「生活水準を下げる」提案をしたい。

 

 

物価高の影響で世の中の見るもの触れるものすべてが

「高くなったなぁ」「内容が少なく(薄く)なったなあ」と日々感じている。

50年以上も生きているのだ。

昔は良かったなど、昭和の考えは押し付けるつもりはない。

つい過去との比較はしてしまうが、文句を言っても仕方がない。

 

 

では、どうすればいいのか?

 

暮らし・片付けの視点で「何を残し、何を捨てるか?」

ヒントになれば幸いだ。

 

 

 

 

1 見栄を捨てる

 

人に良く見られたい。

誰しも思う健全な思考だ。

 

自分たちに投資していたもの、

 

会員になったが言い訳が多く足が向かないジムや、身の丈に合わない自家用車、

おしゃれなカフェに行くことのステータス。ほか

取っかえ引っかえカメレオンのごとく衣装をチェンジしてクローゼットがあふれていること

過去の本やCDや楽器をこれでもかと並べて、家族のものを置けないでいること

 

ないだろうか?

 

 

 

2 自分への期待値を下げる

 

以前、我が家でもお気に入りだった自家用車(外車)を手放した。

これぞ“見栄の象徴”である。

 

夫がある日「車を売ろうと思っているんだけど」と言った。

 

運転も管理も全て夫だ。

本来なら夫が決めて行動すればいいものを

「ちょっと待った」をかけた。

私もこの車が気に入っていた。

エンジンがどうのとかではなく「見た目がよくかっこいいから」それだけだった。

 

夫は、乗り尽くして飽きたのと、所有していること自体に疑問があった。

 

その後、現実的な夫の意見に折れ、今ではカーシェア生活だ。

なんの問題もない。それどころか

駐車場代などのコストはじめ、車検などの手間やメンテナンスなどの「管理する」ことがなくなり、もろもろの負担がなくなった。

 

乗っている時にはわからなかったが

当時は

乗っている自分(たち)がかっこいい家族であるかのように思い込んでいた。

 

「ほんと、バッカだね〜」と昔の自分に言ってみる。

 

今ではカーシェアでダサい車に「当たって」も、

むしろダサさを楽しんでいる節はある。

 

 

 

 

3 ギャップを埋める

 

自分(たち)の期待値が上がっていると

 

「こんなダサいオレじゃない(はず)だ」

「私がこんな安い店に行って食事をするのなんて(恥ずかしい)」

「他の家庭はこれだけ習い事をしているから我が家も(やらせないとかわいそう)」

 

全て見栄からくるもの。

 

 

思い描くイメージが高過ぎやしないだろうか

実際足元を見てみると、アップアップして溺れかけていないだろうか?

 

そして

こんなはずじゃなかった。

ギャップに苦しんでいないだろうか?

 

 

 

ギャップが大きければ大きいほど苦しむ。

 

 

ここで提案だ。

 

足元を見つめ直してみること。

そのために片付けを。

 

そこにある、あなたが選んだ持ち物が

“あなたの見栄”を物語ってくれるはずだ。