目に映る新緑が眩しい、時期。
あなたは
ゆっくりとこのお休みを楽しんでいるだろうか。
昨日は
娘の習い事の合間に
夫と束の間の公園デート。
「ふらっと近場で、何かパンでも買ってベンチでどう?」と夫からの提案。
いいね!と、ノリで公園近くのパン屋に入った。
意気揚々と
トレーとトングを手にして、パンの並んだ棚を見る。
・・・。
そして我々は目を合わせ無言で
手にした空のトレーとトングを元の位置に戻し、店を出た。
そして
近くのコンビニで、おにぎりと冷製パスタとスイーツと飲み物を買って、
公園に戻った。
木漏れ日の中、ベンチに座り、おにぎりとパスタとスイーツを分け食べた。
パンの値段をケチってコンビニに行き直した夫婦の話、だけで終わらせたくなく
今回「生活水準を下げる」提案をしたい。
物価高の影響で世の中の見るもの触れるものすべてが
「高くなったなぁ」「内容が少なく(薄く)なったなあ」と日々感じている。
50年以上も生きているのだ。
昔は良かったなど、昭和の考えは押し付けるつもりはない。
つい過去との比較はしてしまうが、文句を言っても仕方がない。
では、どうすればいいのか?
暮らし・片付けの視点で「何を残し、何を捨てるか?」
ヒントになれば幸いだ。
人に良く見られたい。
誰しも思う健全な思考だ。
自分たちに投資していたもの、
会員になったが言い訳が多く足が向かないジムや、身の丈に合わない自家用車、
おしゃれなカフェに行くことのステータス。ほか
取っかえ引っかえカメレオンのごとく衣装をチェンジしてクローゼットがあふれていること
過去の本やCDや楽器をこれでもかと並べて、家族のものを置けないでいること
ないだろうか?
以前、我が家でもお気に入りだった自家用車(外車)を手放した。
これぞ“見栄の象徴”である。
夫がある日「車を売ろうと思っているんだけど」と言った。
運転も管理も全て夫だ。
本来なら夫が決めて行動すればいいものを
「ちょっと待った」をかけた。
私もこの車が気に入っていた。
エンジンがどうのとかではなく「見た目がよくかっこいいから」それだけだった。
夫は、乗り尽くして飽きたのと、所有していること自体に疑問があった。
その後、現実的な夫の意見に折れ、今ではカーシェア生活だ。
なんの問題もない。それどころか
駐車場代などのコストはじめ、車検などの手間やメンテナンスなどの「管理する」ことがなくなり、もろもろの負担がなくなった。
乗っている時にはわからなかったが
当時は
乗っている自分(たち)がかっこいい家族であるかのように思い込んでいた。
「ほんと、バッカだね〜」と昔の自分に言ってみる。
今ではカーシェアでダサい車に「当たって」も、
むしろダサさを楽しんでいる節はある。
自分(たち)の期待値が上がっていると
「こんなダサいオレじゃない(はず)だ」
「私がこんな安い店に行って食事をするのなんて(恥ずかしい)」
「他の家庭はこれだけ習い事をしているから我が家も(やらせないとかわいそう)」
全て見栄からくるもの。
思い描くイメージが高過ぎやしないだろうか?
実際足元を見てみると、アップアップして溺れかけていないだろうか?
そして
こんなはずじゃなかった。
ギャップに苦しんでいないだろうか?
ギャップが大きければ大きいほど苦しむ。
ここで提案だ。
足元を見つめ直してみること。
そのために片付けを。
そこにある、あなたが選んだ持ち物が
“あなたの見栄”を物語ってくれるはずだ。