
気心の知れた人と会話する。
ふと、会話が途切れ、沈黙が流れる。
顔を見合わせ、微笑みを浮かべ、沈黙は続く。
けれども、その沈黙さえ自然に会話として成立する。
沈黙を会話で「埋めよう」としていないだろうか?
沈黙になると「何か喋ったらいいのか?」そんなことを考えていないだろうか?
言葉で時間を埋めたり、沈黙を破ろうとすることが、果たして必要だろうか?
人によっては沈黙さえ、心地よい場合だってある。
言葉に余白を。
空間にも余白を。
人間にも余白を。
余白のある人は美しい。
片付けの際、ものを手に取り、
「要/不要の判断」「これは自分にとって必要なものか」と思う時間がある。
労力を使い、心を使う作業だ。もっとも疲れる時間と言ってもいい。
この時間こそ、誰にも邪魔されたくないし、邪魔してはいけない。

「これ高かったじゃないの」「え?捨てちゃうの?」「もったいない」
他人が言ってはいけない、片付けのNGワードである。
家族であっても他人からのアドバイスは、最大の「クソバイス」だ。
なぜ他人が介入すると「こじれる」のか。
整理する、というのは、
自問自答の作業の積み重ね、だからだ。
以前伺ったクライアント宅に、家族以外の第三者の友人という人が訪問したことがある。
クライアント、友人、金内の3人での作業になったのだが、
それが、とにかくやりづらい。

クライアントの意向を伺って進めることが、片付けのプロである私の役割なのだが、
その友人が来たことによって状況は一変した。
クライアントに確認しようと、物を手に取った瞬間
「それ、そこに置いた方がいいよ」
「なんでこれ買ったの?買すぎじゃない?」
「なにそれ?捨てちゃえば?」
彼女の全ての言葉が、クソバイス、だらけだ。
単なる興味本位で遊びに来た、と言うクライアントの友人。
クライアントの「考える力」を吸い取り、さらには自分の支配下におさめようとさえ見えた。
これを読んであなたはどう思っただろうか?
この友人を自宅に呼んだのは他でもない、クライアントだ。
私はその友人の言葉を無視し、クライアントとの会話に集中した。
それでも横から口を挟んでくる、友人。
もう2度と経験(会い)したくないと、心に誓った。
整理は一人での孤独な作業である。
一人で行うのがお勧めだ。
見ず知らずの大勢の他人が自宅に来て、土足であなたの心に踏み込むような行為は避けたい。
けれども、一人ではできない人に、
片付けのプロがクライアントと一緒に「併走」「併歩」する。

「整理収納アドバイザー」というくらいだから
「アドバイス」という名の
事実と理想の調整、希望の暮らしの実現に向けての歩き方。についてもそうだが
ゴミの捨て方、家族との調和、収納と人間のバランスなども知見/経験値からお伝えする。
間違っても
「こうしたらいい」
「こうするのがいい」
「絶対これじゃなきゃダメ」
これらは、全てクソバイス、と思っているが。
(そもそもこの記事自体どうなのよ?と言う話だ)
もし過去にうっかり喋っていたら、遠慮なくビシッと突っ込んでいいただきたい。
アドバイス、の難しさはこれだけではない。
仕事でもプライベートでも、いつも悩んでいる。
良かれと思ったことがクソバイスになることだってよくある。
口を出さない、努力。
これは努力という名の習慣だ。
習慣は人間を形成する。
さて冒頭の話に戻る。
会話に余白を作ることが、相手を引き出すことも多くある。
必要なのは、
足し算、ではなく、引き算、なのかも知れない。