「自立」というと、子どものことだと思っていない?
中学1年の娘に叱られた。
何が原因か忘れてしまったが、会話の途中で
母(私)に対し
「そんな事は自分の心が決めることなの!」と。
要するに「ほっといてくれ」と一蹴された。
最近、子どもからよく叱られる。
以前も
学校からもらったプリントをよく読まず、保管した。
そこには
返信欄がある事に気が付かず
学校への返信用キリトリ部分をうっかり提出せずに
そのままにしてしまった。
娘が「あのプリント何処にいった?」
と言うので
ファイルに保管したプリントを出そうと
「ああ、あるよ!」と意気揚々の私。
その姿を見て、
「またか」と言う表情でがっくりする娘。
「返信の部分あったんだよ(知ってた?)
提出期限切れて、学校からまた同じプリントもらってきた」
と冷静に釘を刺された。
あちゃー。。
ただ仕舞えば良いってもんじゃない。
片付けのプロとして、恥ずべき行動。
こんないい加減な母なので、
末っ子の娘はまだ相手にしてくれるが、上の兄3人はどうやら
私の事を全く「アテ」にしていない様子。
だからこちらに語ろうともしないのだ。
反面教師と言う、便利な言い訳で
今日は「子どもの自立」を促す片付けについて話したい。
親子・家族でありながら、結局は個々の人間の付き合いだ。
そのため、子どもは親の言う事など聞かなくていいと思っている。
片付けも然り。
要るor要らない、の判断は本人に任せる。
年齢により出来る出来ないがあるが、
まずは隣で子どもと一緒に。
要る要らない2択で決める。
徐々に、手を、目を離していく。
決まらない場合は保留。
口は出さなくていい。
ゆっくりでも自分で決めることに価値がある。
人が決めた事に従うのは
幾つになっても自立はない。
決める事の重要性は
失敗しても恐れず
人のせいにしないで決めた事を全うする。
自宅に
ふわっと欲しくない物をもらっていないだろうか?
人からいただいた物にホコリがかぶっていないだろうか?
断ること。
また
存在を忘れずに活かすこと。
また感情と事実を分別できる。
感情に振り回されることなく
物事をゴールまで遂行できる、というわけだ。
分別が出来る人間は、
ただ綺麗な環境を作るだけでなく
自分の価値基準「こうありたい」軸が、できている。
個々の存在の人間だが、
人は1人で生きていけない。
出来ない事を知るために
片付けはあるのではないか?
と最近思う。
自分のキャバを超えた物を持つ事。
やろう(例えば片付け)と思ったが実際には出来なかった事。
片付けのプロと偉そうに言っているが、子どもに叱られる自分。
片付けがもたらす、最大の課題だろう。
実際は往々にして片付けが出来ないのは
子どもではなく、
私も含め、我々大人ではなかろうか。
子どもにだって教わりながら生きていくのだ。
謙虚に感謝を忘れずに生きていきたい。
自戒を込めて。