「え?!捨てるのですか?
どうせ捨てるのなら。その前に。写真に撮ってから捨てませんか?みなさんで」
以前、片付けに伺ったクライアント宅でのこと。
ご主人が長く続けておられるスポーツのトロフィーが部屋から出てきた。
集めたらおおよそ50、60以上はあっただろうか。
ダイニングテーブルの上には乗り切らず。
近くの床にもそれらを慎重に置き、並べた。
これらのトロフィー「何処にどうやって飾るか?」
なんて一人であれこれと思案していたら、
丁度仕事から帰宅したご主人がこれらのトロフィーを見て
感嘆の声を上げた。そして
隣にいた奥様とトロフィーを手にした思い出話に花が咲き。
その後、ご主人から思いがけない言葉をもらった。
「全部、捨てても良いな」
え?!
捨てる?、、ですって?!
私の方がビックリした。
何度も「捨てても良いのか」確認した。
奥様も異存はないよう。
綺麗さっぱり、清々しい顔の、当のご主人。
それで冒頭の私からの提案になる。
在宅していたお子さんたちとご夫婦。
家族勢揃いの前には、沢山の並べ直した、ご主人の輝くトロフィーたち。
こちらも微笑ましい、素敵な写真が撮れた。
「捨てる」と言ったご主人の胸の内は
モノはモノ。
トロフィー自体には「執着」がない。との事。
ご主人の身体は長年鍛え上げられた筋肉こそが
モノ言わぬ「証明」だ。
世には「こんなに頑張ったんだから」と言って
私も含めて、モノに執着する人の何と多い事やら。
捨てられない、は自分への過去の頑張りを正当化したい執着、だろう。
トロフィー以外にも
賞状、手芸などの作品、学生時代の部活のユニフォームなんてある?
特に、子供の工作なんかも代表的だろう。
子供は「要らない」って言っているのに
親が「ほらぁ、こんなに頑張って作ったじゃない」
で残す、とか。
逆パターンもあるか。
親は捨てたいけど子供が「取っておく!」と。
どちらにしても
クライアントご主人のように
モノはモノ。
作品は作品。
自分にはちゃんと「成長」「身についている」と言う、認識と自信があれば
潔く捨てられるはずだ。
捨てる、と決まったら。
じゃあゴミ袋に。
でも良いのだが。
特に思い出が乗っかっているようなもの。に関しては。
是非写真に撮って欲しい。
ただ、ちょっと待った。
フツーに物だけの、ブツ撮り、はダメだ。
なぜなら子供の作品なら
きょうだいがいれば「誰のだっけ?」
撮影日はわかっても「いつの時代だっけ」と思いを巡らす。
子供が作品を持った、写真を。
一発で、〇〇ちゃんの、年長さん時代の、頑張った思い出写真、が出来る。
なんなら、笑顔が良い。
片付けに伺うクライアント宅でのお子さんと作品の写真をよく撮る。
この時ばかりは即席カメラマンとしても働く。
「はい、ニッコリね」「いいね〜!」とノせて、笑顔にし、撮らせてもらう。
思い出を単なる通過点にしない。
頑張った証だって残したい。
しかも良い思い出として残すには「無理矢理にでも?!笑顔」が効果的。
捨てる罪悪感なんて感じなくて良いのだ。
思い出は経験とスマホの中に残っている。