丁寧の本質は?
丁寧という言葉には絶対的な清らかさを感じる。
「丁寧に生きているね」
「丁寧な言葉遣いだね」
「丁寧な対応だね」
これを言われて嫌な気持ちになる人は、そういないだろう。
それだけ皆が「うつくしい言葉」として認識しているはずだ。
丁寧に暮らしたい。
そんな呪縛を抱えている人もいるだろう。
片付けで訪問するクライアント宅では
「丁寧」に暮らそうとした結果、
部屋の中に「丁寧に気を取られ」収拾がつかず。と言うこともある。
引き出しの中はものが整然と揃って完璧なのに、
収納以外の床やテーブルには、ものが溢れる。
収納が引き金になって、他の場所も片付けばいいのだが、そうはいかない。
一旦は片付くものの、またすぐに床とテーブルは物が溢れ散らかる。
収納の中は変わらず。
それもそのはず。収納内一回も中のものを触っていないからだ。
果たして、これは上手に収納していることかしら?
収納内の完璧を目指した結果、欲しかった丁寧に暮らすことから離れてしまう。
「木」という収納は丁寧に、しかし中身が使われていなかったらどうだろうか?
「森」という部屋は結果、部屋として活かすことができない。
丁寧は「完璧に収納する」ことではない。
食器棚にお気に入りの“作家さん”の食器を並べたい。
一見、部屋は白を基調とした小綺麗なインテリア。
新調したという、食器棚の中を見せてもらった。
“作家さん”の作品たちの食器に紛れて
紙皿やプラスティック製カトラリーなどがあった。
普段は作家さんの皿を自分たちで使うが、
「幼稚園の子供の友達がよく来ることがあるので、その時に紙皿・紙コップを使っている」だから紙皿紙コップは必要、という。
人の価値観を、とやかく言いたくはないが
これが丁寧な暮らし、なのか?と正直思った。
それとも私の価値観が偏っているのか?
幼稚園の子供が来ると言うことは、その親も来るはずだ。
紙皿、紙コップをお菓子や飲み物を入れて、来客にしれっと出す。
普段から自分たちも紙皿を使って暮らしていれば納得するが、
そうではないことに違和感を覚えた。
自分たちだけ「丁寧」にすればいいものなのか?
最後は、我が夫の話だ。
性格的に、おおらかなところも多くあるが、
こと他人のために「丁寧」になる(なってしまう)きらいがある。
仕事でも、家庭でも、自分のことを後回しにする。
まずは人。その後自分。
特に人の旅行のスケジュールを立てるのが“趣味”だ。
何時何分の電車に乗って、現地に着いたら海があるからそこで観光しつつゆっくりしてそれから何分発の旅館行きのバスが来るからそれに乗って。。
電車も旅館も、延々と提案できる。見返りは求めない。
まるでおかかえ添乗員だ。
もちろん本人は行かない。
1日24時間、誰のために何のために時間を使おうが自由だが
そんな彼の職場のデスクの上、自宅の私物は「宿題」がたくさんある。
そもそも丁寧に生きよう、など1ミリも考えたことはないだろう。
丁寧になってしまった、のだ。
「いつやるの?!」いつも鬼の形相の妻から、どやされる日常だ。
他人様の前に自分に丁寧にすることで、暮らしのバランスが取れる
人の生きがいや、趣味を否定するつもりはない。
だが、
丁寧にすればするほど、大切なものを置き忘れてしまうこともあるだろう。
人のことは言えるのか。
そんな私はどうだ?
少しは丁寧に生きた方がいいのかもしれない。