先日、80代のお客様宅の片付けに伺った時の出来事。
寝室にある背の高さ以上にもなる、本棚の整理をしました。
本棚には本だけでなく、文房具、手紙類、書類などがあり、
ただ物を処分するだけでなく、
お客さまと「安全な配置」をご相談しながら、物の居場所を決定していきました。
その際に、棚にはもともと安全バーなどが設置されておらず、
こちらで棚の側面にネジをつけて紐でネジの部分にくくりつけ、
棚板の下部分近く、物が落ちてこないように
簡単ではありますが、即席安全バーを作りました。
(ご自宅にあれば細い突っ張り棒なども有効です。ぜひご利用下さい)
(イメージ写真)
お客さま「これで寝る時も安心して寝られるわ」「ありがとう」
「こんな歳なのに、生きることに執着するのもおかしいけれどもね」
金内「・・・そんなこと、かもしれませんが、執着すること大事だと思います」
80代、世間では《終活》と呼ばれる片付け、でしょう。
身のまわりを整理して、残された人生をより良く生きるために。
とイメージはまあまあ、できるのですが
同時に、いかんせん後ろ向きなイメージが付き纏い
お客さまにだけでなく普段から使わないようにしていました。
なんだか寂しいじゃないですか。終わるって。
この会話をきっかけに今までの終活に対する気持ちが少し変わり
「いや、違うんだ」と思い始めています。
「死」があるから「生」に執着するのだ、と。
生きること、にこだわる、と言ってもいいかもしれない。
子供や孫たちに迷惑をかけたくない。
自分らしい死に方をしたい。
いつ何があっても安心できるようにしたい。
そんな声を、何人かのシニアの方から伺います。
最近では《墓友/はかとも》と言って、
共同墓地に一緒に入る前提の、
まったくの赤の他人同士の「交友」「集まり」などもあるそうです。
生前の、血縁関係なしの「出会い」。
死んだら終わり、じゃ、ない。
死んでも繋がり/ご縁、を大切にする。
前向きなこの言葉を、理解するまで少し時間はかかりましたが
終活はネガティブなことじゃない。
案外、ご本人たちは私が思う以上に「死」に対してドライに受け入れている。
と感じます。
なんとなく40、50代の私たちは、まだ先のこと、と思うかもしれませんが、
老いていく親を見て、思うように体が動かなくなる、転んで骨折する、病院通いが増える、介護保険を使うようになる、同じことを繰り返し話すようになる、などなど。
受け入れるしかないのですよね。
同時に、自分もそうなる覚悟も必要だと。
そうなると、終活は今からでも始めた方がいいかもしれませんね。
終活として捉えずに、身の回りの整理だったら受け入れるだろうか。
同世代の友人知人とは
「子育てがひと段落したと思ったら、次は親の介護か」と
冗談まじりに話します。
女の一生は子育てに親の介護に、
家族に尽くすだけ、ではありません。
自分のために生きる。
自分らしく生きる。
人間らしく生きる。
いくつになっても
生きることに、大いに執着しようではありませんか。