日曜日は
片付けの手を休めて
ドラマ
を。
第24話。最終回。
母・令子の葬儀が終わり、
東京から富良野に戻った純と蛍。
電車から駆け足で父五郎の元へ駆け寄るシーンは印象的。
完成された丸太小屋にはしゃぐ二人。
夕飯時、蛍からの提案で
台風で屋根が飛んでしまった住んでいた家を3人で見に行く。
半壊した家に驚く子供達。
「最初に来た時みたい」とショックで落ち込む。
家の中での純と五郎の会話
・・・・・
五郎「なんだか懐かしいなあ。ここで一年頑張ったんだもんな。
純、まいっているか?」
純(首を振り)「大丈夫です」
五郎「そうか。(純を抱き寄せ)強いな。父さん、まいっている。
男が弱音をな、 は、吐くもんじゃないがな、しかしな。まいっている。許せ。今だけだ。つらいな。大丈夫。つらいな」(涙交じり)
・・・・・・
しんみりしたムードの中、外に出ていた蛍が「キツネがいる」と
家にいる二人を呼ぶ。
一度は死んだと思っていた、左の前足が無いキツネが帰ってきた。
過去には純が石で追いやって寄り付かなくなった、
笠松の爺さんの虎バサミ(罠)で足を無くしたキツネ。
過酷な大自然の厳しさにも耐え
何も無いところから
試行錯誤の末に水道が通り、風力発電で電気がつき、動物の生命力に感動し。
東京で前の先生に純たちが偶然出会うシーンがあるが
他のクラスメイトとの“格差”をまざまざと見せられ
「前は好きだった先生が、今は違って見えた」
先生が変わったのではなく、僕が変わったのだ。と。
都会と田舎の暮らしの違いを肌で感じる純。
また成長のさなか“男としてどうなんだ”を突きつけられ。
最後のシーンで
純は亡き母への(返信)メッセージとして
「母さんつらいよ。とっても寂しいよ」と始まっている。
ここで先ほど伝えた、五郎が純に発した弱音を思い出す。
「つらい」と言葉にする。
これでいいんだなぁ。と深く納得する。
大人の男(または人として)になるには、強さ、だけでは生きていけない。
草太のボクシングの試合のように、結果負けても立ち直っていく姿に感動する。
弱さを素直に出せることが、人間のあり方なのかもしれない。
とにかくリアリティを追求した作品である。
一輪車の石を乗せて運ぶシーンも子供だからって甘やかさなかった。
草太のボクシングのシーンもプロ相手に本気で挑んだそうだ。
そしてキツネが戻ってくるシーンも。
(これらは『「北の国から」ガイドブック』に書いてある撮影裏話から抜粋した)
男というのは〜、北の大地の美しさは〜、子育てとは〜、と
しゃあしゃあと“したり顔”で語らないのが、この作品の最大の魅力だろう。
純のメッセージの最後には
「母さんがきれいだと言っていた雲」はどれか蛍と話している。と締めくくっている。
最後のエンドロールでも関心を寄せた。
50音順に名前が並んでいるだけ、なのだ。
倉本氏も、さだ氏も、杉田氏も。
「出演者」「撮影」「脚本」「美術」「音楽」「プロデューサー」もなく
すべて同列に名前が並んでいるだけ。
ただし、オープニングクレジットでは細かに記載がある。
この潔さ、最後まですごいなあ、と思う。
上も下も、横も縦も、大きいも小さいも、無い。
確かに、ひとりの「子役」じゃなく、立派な「俳優」だもの。
最後に。
最初は24話も観られるか?と思ったが、観てよかった。
一話づつ感想を書けたのも何か(ん、何だろう?)残ったようにも感じる。
長くお付き合いいただき、感謝。
スペシャル版でも、引き続き感想レビューを書きたい。
今後とも、ご贔屓に。