日曜日は
片付けの手を休めて
ドラマ
今回16話。
正吉の祖父・杵次が川に転落死したシーンから物語がはじまる。
杵次の葬式でのシーン。
富良野を離れた杵次の息子たちが葬式のため久しぶりに戻ってきた。
しかし、口を開けば父の悪口ばかり。
葬式だというのに賑やかな雰囲気で
初めて葬式に出た純が
「お祭りの後のように」盛り上がっている。と感じていた。
へなまずるい奴、として嫌われ者だった杵次。
息子たちだけでなく、土地の皆が嫌っていた。
そんな中
かつての開拓時代、苦労を共にした清吉が口を開く。
・・・・・・・
「お前らはわかっとらん。やっぱり、なぁーんもわかっとらん。
お前らだけじゃねえ、みんなが忘れとる。
一町起こすのに2年もかかった。その苦労した功績者を忘れとる。
功績者の気持ちを誰もが忘れとる。
とっつあんは確かに評判が悪かった。
けど昔は、みんなあの人を “仏の杵次” そう呼んどったよ。
そういう時代は昔はあったんだ。それが、どうして今みたいになったか。
みんなとっつあんの苦労を忘れちまったからだ。
忘れなかったのはあの馬だけだ。あの馬だけがとっつあんをわかっとった。
その馬を手放した時。その馬を売った時。。」
・・・・・・・・
清吉と同じように、静かながらも存在感を放つ人物。
杵次の娘で、五郎の幼馴染でもある、正吉の母・みどりの存在がある。
葬式後、五郎の家を正吉を連れて、ふらりと訪ねる。
五郎と酒を酌み交わし、心を通わせる。
杵次の家を取り壊すことを案じていたが、
杵次の家から出る廃材を、五郎が丸太小屋に再生する計画立てていることを伝え、
嬉しそうに涙を浮かべ感謝する。
また、五郎の妻・令子の病気の容態を心配しながらも
五郎が愛した妻を「いい女だね」としみじみと語るシーンは
女の私からみても色っぽくあり、グッとくる。
最後には何も言わず消息を立つのも、この女の生き様を物語っていて
この歳になって、ようやくこのくだりは興味深く観ることができた。
杵次の家を取り壊し、廃材を使って五郎が家を建てる。
杵次の息子たちには引き継がれなかった
開拓のDNAは、五郎にそして純や蛍にも確かに引き継がれている。
寝床があることの幸せ。
ごはんを食べられる幸せ。
生きていることへの幸せ。
「幸せ」と書くと、捻くれた私はつい恥ずかしくもなる。
でも、改めて幸せ、だ。
当たり前の日常を何気なく過ごしているが
ついその目の前の幸せに忘れがちでもある。
話が大きくなってしまったな。。なんかやっぱり恥ずかしいな。
杵次のように、へなまずるい奴であっても、、
昔の苦労した同じ人間である、仏の杵次、を知っている人間だっているのだ。
それは武勇伝のように語り継がれるものばかりではない。
どちらかと言うと
むしろ忌み嫌われているものこそ、
本質的なものを見出してみる必要があるのではないだろうか。