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2025.09.22拒否感?【捨てる意識】を再考する

 

 

「“捨てる”を“手放す”に変えていただけますか?」

 

 

これは以前、ある機関誌の連載記事監修の際に、

内容を“捨てる”表記を訂正希望した

編集者に送った私のメールの一文だ。

 

 

“捨てる”という言葉が大嫌いだった

 

 

 

 

1 ボロのスニーカーを捨てる

 

昨日の『北の国から』23話レビュー記事でも触れたが

純たちのボロボロのスニーカーを母の恋人・吉野が靴屋で買い替える。

 

新しい靴と引き換えに、古いボロボロのスニーカーを店で捨てることになる。

 

それでも吉野はその時に子供達に「いいか?(古いスニーカーを持って帰るか)」と確認した。大人としてちゃんと子どもの尊厳を守った(やはりスマートな男だ)

が、純たちは雰囲気に流されるように捨てた。

最後のシーンでも警察官に吉野の行動に「事情をよく知らないから」と捨てたことに擁護している(純も大人だ)

 

このボロ靴、

五郎が富良野でワゴンで一番安い靴を選び「これが最高」と純たち半ば強制的に履かせた、スニーカー。

1年間、純たちの足を守り、生活を共にした。

21話では最後に、五郎が彼らのスニーカーの破けた部分を縫っているシーンがある。

うう、切ない。

 

物を大切に使う、当たり前でありながら、その気持ちにグッとまた涙が出る。

 

 

 

 

2 異様?「捨てる」執着

 

このシーンが20代に観た頃から30年以上もずっと心に残っている。

むしろ今の方が、その想いはより濃くなってきているだろう。

 

泥のついた一万円札、空知川を走る蛍も、大好きなシーンだが。

それにしてもこのシーンだけは自分にとって、別格なのだ。

 

 

当然、自身が片付けの仕事をする、ずーーーっと前のことなのだから。

因果なもんだろう。

 

「捨てるのは悪か?」

 

そう問われると違う。

 

私が言いたいことは

持ち主の気持ちを知らずして「捨てられる」のは不本意なのだ。

 

 

本人が「意思」を持って捨てるか。

他人が察して「勝手に」捨てるか。

 

同じ「捨てる」といっても

雲泥の差、大きな違いがある。

 

 

いくらどれだけ相手のことを思っていても、相手がその気になっているような素ぶりを見せようが、私は勝手に人のものは捨てたくはない。

 

クライアント宅で床に落ちている、明らかなゴミであろう

丸まったレシートだって、それを広げて「捨てます?」と確認する。

例外としてクライアントから丸投げされたら、こちらの判断で処分するが、

基本的に捨てない

 

 

「捨ててスッキリ」なんて言葉は自分に対するものであって、

他人(家族であっても)に対するものではない。

 

なんといっても、この言葉自体、デリカシーのカケラもない。

 

 

 

 

 

3 「捨てる」ためのリハビリ

 

相当めんどくさいヤツだ、と自分でも思う。

 

何かにつけて、“引っ掛かり”がある人間は周りをややこしくする。

冒頭の編集者だって「ああ面倒くせえ」と思っていただろう。

反論の余地もない。全くその通りなのだ。

 

 

しかし。

捨てる神あれば拾う神あり」

 

これも事実。

捨てなければ、諦めなければ、手放さなければ。

いつまで経っても「成長」「新たな自分」「更新」は無し。

 

実際に、目の前の物を捨てて、軽やかになった経験は私だけではなかろう。

今では「捨てる」言葉も嫌いではない。

 

 

いざ

捨てるのだ。

 

自分の手で。自分の意思で。

 

もう、くすぶっている時間はない。