先日、ニュースで
「わたしを束ねないで」の著者、
詩人の新川和江さんの訃報を知りました。
「わたしを束ねないで」は、中学国語の教科書に掲載
ご存知の方も多いのではないでしょうか。
かういう私も、35年以上経った今でも心に残る、原風景のような存在です。
当時中学生だった私に軽いショックを与えたことを覚えています。
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『わたしを束ねないで』(全文)
わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
束ねないでください 私は稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲穂
わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽撃き
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音
わたしを注がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮 ふちのない水
わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風
わたしを区切らないで
,や.いくつかの段階
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく
一行の詩
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属性に縛られていないだろうか。
思いのままに生きられなくなっていないか。
言いたいことも我慢していないだろうか。
人と話すときは、
なるべく「ありのままのその人」
つまり属性を省くこと、を意識しています。
いわゆる社会的地位が高い人と話すときも、そうです。
(タメ語で話すとか、フランクになるとか、そういうことでは無い)
なぜならば
片付けで伺うお宅では、どの方も皆同じような悩みを抱えていて
心の底から「同じ人間なんだ」と思ったからです。
また自身、めったにない事ですが、過去に職業を伝えたら社会的に下に見られるような態度をされたことがあります。
それでもそう思う人には「勝手に思っとけ」と心の中のパンチと一緒に吹き飛ばします。
誰が偉いとか、優劣とか、上とか下とか、そんなものはそもそも無い、
もし 仮にあったとすれば要らない。
属性を捨てる。
社会や職場などのオフィシャルな場では
立場や役割があるので時と場合によっては必要。
自分もその「立場」を大いに利用することもあります。
また立場があるからこそ、できることも当然あります。
ですが、本来の人間としての尊厳を謳った
この詩には新川さんの力強いメッセージが込められています。
詩にあるように
『重々しい母という名でしつらえた座に坐らせないでください』
『わたしは風』なのだから。
自由になろう。
自分を取り戻そう。
思うままに生きようじゃないか。
新川和江さん
心よりご冥福をお祈りいたします。